大友氏館

 所在地  大分県大分市顕徳町
 形式  居館
 主な城主  大友親治・義長・義鑑・義鎮(宗麟)・義統
 遺構   庭石
 指定・選定  国指定史跡
 訪城年月日   2025年3月22日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 

            大友宗麟の像
〜石碑には宗麟の事績と墓の説明が記されている〜

大友宗麟墓の説明版(拡大可)

大友宗麟の胸像

大友宗麟の墓がある宗麟公園(津久見市津久見)
〜宗麟は隠居地であった津久見で生涯を終えた〜

大分駅前(北口)に建つ大友宗麟の像

大おもて(中心建物跡)

復元整備が進む館跡(庭園の北側)

復元された木橋

            復元された池(東池)
〜説明版によると、黒っぽい石が発掘調査で出てきた本物で
白っぽい石がレプリカとの事〜

             復元された松の木
〜説明版によると、出土した種や花粉を分析して得た情報を
元に再現されたとの事〜

庭園

庭園

                          復元された庭園
〜平成10年の発掘調査によって発見され、平成28年から令和2年にかけて復元整備が行われた〜

      大友氏館跡に建つ南蛮BVNGO交流館
〜大友氏遺跡や大友宗麟の事績に関する展示物や映像を
観ることができる(入館料無料)〜

大友氏館跡庭園図

  大友館は、府内と呼ばれた都市の中心に位置し、400年の歴史をもつ名門大友氏の領国支配の拠点として、14世紀後半に10代当主大友
親世により整備されました。以後、天正14年(1586)島津軍の府内侵攻により廃絶するまでの約200年間、改修を重ねながら存続しました。
  16世紀後半になると、21代当主大友宗麟が南蛮貿易の推進により大きな利益を得るとともに、九州6か国の守護となるなど、大友氏は
大きく発展します。天文20年(1551)には、宣教師フランシスコ・ザビエルと宗麟がここ大友館で会見を行い、キリスト教の布教を許可しました。
この歴史的な会見を契機に、宗麟はポルトガル国王へ親交を結ぶための手紙を送り、南蛮貿易が始まります。宗麟は、続く22代当主大友義統
とともに、大友氏に最盛期をもたらし、大友館を戦国大名の居館としては屈指の規模である方2町(約200m四方)もの広大な屋敷へ拡張しま
した。館の南東部にあった園池は2000uを超える規模へ大改修し、政治や儀式を行う中心建物も建て替えました。大友館は、北部九州一円
に覇を唱えた大大名としての威容を誇り、見る者を圧倒した、権威を象徴する施設だったといえます。
  大分市は、1530年に生まれた宗麟の生誕500年にあたる2030年の完成を目標に、大友氏館跡の整備を進めています。
                                                                          <現地案内板より>

大友氏館

INDEX

庭園

 概説

             大友宗麟の墓A
〜昭和52年、元大分市長や当時の津久見市長らで結成
された「大友宗麟公顕彰会」により、キリスト教式の墓として
建立された〜

             大友宗麟の墓@
〜大友氏が衰退した後、墓所は荒廃していたが、200年後
の寛政年間(1789〜1801)に家臣の末裔である臼杵城豊
によって改葬された〜

               建物跡
〜東池を眺めるための建物があったと考えられている〜

復元された井戸

復元された白玉砂利

南蛮BVNGO交流館前に建つ大友宗麟の胸像