だ み ね
田峯城
所在地 | 愛知県北設楽郡設楽町田峯字城 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 菅沼定信・定忠 |
遺構 | 曲輪・空堀 |
指定・選定 | 町指定史跡 |
訪城年月日 | 2018年5月16日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(中腹の駐車場まで) |
物見台から見た豊川(寒狭川)
大手門跡
本丸御殿内(上段の間)
本丸御殿
道寿曲輪
~家老城所道寿の屋敷跡と考えられている~
駐車場(登城口)にある縄張図
田峯城は、県下有数の高山である段戸連峰を間近に控え、寒狭川の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。本丸から見下ろした寒狭川の蛇行と城をいただく山並が、まさに大蛇のようであることから田峯城は別称「蛇頭城(じゃずがじょう)」「竜の城」とも呼ばれていました。
田峯城は文明2年(1470)菅沼定信によって築かれ、定信→定忠→定広→定継→定忠と、代々田峯宗家菅沼氏の居城とされました。
当時は下剋上の時代、今川氏をはじめ武田氏、織田氏、徳川氏などの強大な戦国大名が台頭するなか、この奥三河では作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏三氏が「山家三方衆」として結束していました。しかしその団結も時によっては崩れ、姻戚関係でありながらも骨肉相食む戦いを繰り広げることになります。5代目城主定忠は武田方に従い、家老城所道寿とともに長篠合戦に出陣しますが、武田方大敗の報を受けた留守居の将・叔父定直と家老今泉道善らの謀反にあい、田峯城に入城できずに武田勝頼とともに信州に敗走することを余儀なくされます。復讐を誓った定忠は、翌天正4年(1576)7月14日田峯城に夜襲をかけ、謀反の一族老若男女96名を惨殺、主謀格の今泉道善を鋸引きの刑に処しました。定忠は天正10年(1582)飯田知久平にて討たれ、その後田峯宗家菅沼氏は断絶しました。
<現地案内板より>
「田嶺城址」の碑(本丸跡)
田峯城
物見台(復元)
厩(復元)
本丸御殿と大手門
本丸御殿(復元)
本丸大手門(復元)
~閉まったままで出入りできない~
本丸搦手門(復元)
~この門から本丸へ~
裏曲輪
御台様屋敷跡
畷(あぜ)曲輪
~狭い面積の曲輪であることから、その意を示す畷の字が
使われたと考えられている~
井戸曲輪
~実際には井戸はなく、雨水を貯える設備があったと
考えられている~
表曲輪
空堀に架かる木橋
~ここから城内へ~
登城口付近から見た田峯城址
かんさ
蔵屋敷跡
無名曲輪
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