に い ろ い し の じょ う
新納石城
所在地 | 宮崎県児湯郡木城町石河内 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 長倉祐政・山田宗昌 |
遺構 | 曲輪 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2025年3月21日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可 |
畑と放牧地が広がり、民家が点在しているだけで、
城跡の雰囲気は全くない。
日向新しき村は大正7年(1918)、作家の武者小路実篤と
その同志によって開村された。最盛期は60人を超える村民
が生活していたが、現在は2家族3人に減っている。
城跡(日向新しき村)に続く道
車道の終点が城跡になる。城跡は現在 「日向新しき村」 の
敷地になっている。
県道22号東郷西都線より城跡を望む。現在は城跡に至る車道が通っているが、昭和40年代までは舟で渡っていた。
石河内展望台(県道19号石河内高城高鍋線沿い)
新納石城
小丸川対岸の石河内展望台から見た城跡
伊東氏四十八城における石城について
県内における戦国時代に名高い、高城合戦では、大友氏と島津氏による壮絶な戦いが繰り広げられましたが、それ以前は、伊東氏が日向国
における権力を誇示していました。この伊東氏が、島津氏と凌ぎを削り、抗争を繰り広げられた南北朝期から戦国時代中ごろの山城(やまじろ)
が石城(いしじょう)であります。
日向国における伊東氏の支配体制は、本部基地の役割を果たすべく、西都市の都於郡(とのこおり)城を本城として10~15km内外の間隔
で、出城(でじろ)を県内に四十八ヶ所構え、戦乱時及び領内の統治体制を作りました。これは、日向四十八城といわれ、北は門川城(門川町)
で県(延岡市)の土持氏(つちもちし)と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)と田野城(田野町)、西南は、三之山城(小林市)で、南の島津氏と
接していました。児湯郡内においては、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)富田城(新富町)財部城(高鍋城)、そして本町内
にある高城とこの石城です。
石城は、ここ石河内(いしがわち)に位置し、あの武者小路実篤が理想郷とした、日向新しき村が見られるところがそうであったと言われます。
地形的には、小丸川が極端に迂曲したところに、鹿遊連峰の一角が突出した三面に川を巡らし、西隅の一端が僅かに山領に接し、東西200m、
南北350mの中世山城特有の要害地を形成しています。この展望台から、遠望すると、亀の形に見えることから、「亀城」という別の名称も持って
います。
詳細な発掘調査は実施しておらず、山城としての特徴をつかむには、困難であり、現在でもどの程度が破壊を免れてるかは、不明瞭です。
合戦については、伊東氏一族のものや、長倉勘解由佐衛門尉等譜代の衆が石城に立てこもり島津氏と一戦を交えようとしていました。そして
天正6年(1578)に島津氏の軍勢が押し寄せ、決戦の時がやってきました。島津氏は、様々な戦法を駆使し、相手方の家臣等を味方に引き入れ
ようと画策したりしたが難攻不落の特徴を持ち、また伊東氏には、勇猛な家臣が籠っており、この壮絶な戦いは3日に及んで繰り広げられました。
その間、数多くの死傷者を出した伊東氏は、ついに石城を捨てることにしました。
ここから、間もなく、大友氏と島津氏が争う高城合戦へとつながります。
<石河内展望台案内板より>
新納石城
石河内展望台に設置されている説明版(拡大可)