新宮城

 所在地  和歌山県新宮市丹鶴(丹鶴城公園)
 形式  平山城
 主な城主  浅野忠吉・水野重仲
 遺構  曲輪・石垣
 指定・選定  国指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日  2024年11月25日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B  D E
 車での登城  可(山腹の駐車場まで)

              鐘ノ丸跡
〜浅野氏の時代は二ノ丸であり、櫓が3基建っていた〜

天守台石垣

        天守台石垣
〜昭和27年の大雨で崩落したらしい〜

            西麓にある二ノ丸跡
〜浅野氏時代は三ノ丸であったが、水野氏の時代に二ノ丸
となった。現在は正明保育園となっている〜

本丸遠望(松ノ丸より)

松ノ丸虎口

               出丸跡
〜本丸の北側にあり、浅野氏時代は本丸と橋で繋がって
いたが、水野氏時代には橋が撤去されて切り離された〜

本丸跡からの眺望(川は熊野川)

本丸西側の天守跡

                本丸跡
〜本丸には大小の天守が建っていたほか、四隅に櫓が建ち
それぞれ多聞で連結されていた〜

枡形虎口の石垣

この登城道は江戸時代の絵図には描かれておらず、
公園化の際に造られたと考えられている。

縄張図

                登城道
〜公園駐車場からこの階段を登って行くと本丸に到達する〜

〜 新宮城の歴史 〜
  新宮城(別名:丹鶴城)は、関ヶ原合戦の後、和歌山城主となった浅野幸長の家臣・浅野忠吉が新宮領を与えられて、慶長6年(1601)に
築城を開始した城である。元和元年(1615)の一国一城令でいったん廃城となるが、同4年、再建を許され、再び築城が始まる。
  元和5年(1619)、浅野氏にかわり徳川家康の十男・頼宣が紀州に入国し、同時に頼宣の付家老として、新宮に水野重仲が入った。重仲は、
忠吉の築城工事を継続し、寛永10年(1633)、城は完成をみる。以後、明治の廃藩置県により廃城となるまで、紀州藩新宮領支配の中枢
として機能した。

〜 構造 〜
  この城は、独立丘陵上にあり、東の最高所に「本丸」と「天守台」が、その西方に「鐘ノ丸」と「松ノ丸」が配置される。本丸の北には「出丸」が
あり、熊野川の河口、上流方向が見通せる。
  熊野川岸の「水ノ手」には、船着場と1万俵余の炭が収納できる大規模な炭納屋が設けられ、熊野川流域の備長炭を集積し、江戸などへ出荷
する拠点となっていた。
  また、隣接の現在保育園となっている場所は「二ノ丸」といい、領国支配の行政機関があった。登城のための「大手道」は、二ノ丸の北側(市民
会館横)に入口があるが、今は建ち並ぶ民家でふさがれ入ることはできない。

                                                                          <現地案内板より>

新宮城

INDEX

本丸南側石垣

天守台石垣

本丸跡

その先には本丸の入口となる枡形虎口がある

 概説

松ノ丸跡

鐘ノ丸虎口

鐘ノ丸虎口

              本丸南下の曲輪
〜現在は休憩所となっているが、往時は櫓が2基建っていた〜

階段を登りきると本丸の石垣に直面する。
石垣上の櫓風の建物はトイレである。